ゴッホ展(響き合う魂へレーネとフィンセント)観に行ってきました
ゴッホといえばひまわりを連想される方も多いと思いますが
今回の目玉作品は『夜のプロヴァンスの田舎道』でした
糸杉をモチーフに描かれた作品で、サン=レミで描かれた最後の作品です
糸杉と細い三日月と夜空を描いてる絵の具のタッチが印象的で
ゴッホの作品の中でも一度は観たかった作品でしたので観れてとても嬉しかったです
へレーネ・クレラー=ミュラーとは
ヘレーネ・クレラー=ミュラー・・・
HeleneKröller-Müller(1869~ 1939)。
ドイツのアート・コレクター。
フィンセント・ファン・ゴッホの才能を認めた最初のコレクターの一人と言われています
実業家の夫アントンの支えのもと11,000点を超える作品を入手しました。
彼女はファン・ゴッホの作品に深い精神性や人間性を感じ取り、多くのファン・ゴッホ作品を購入していきます。
そして、世界最大のファン・ゴッホ作品の収集家となり、1938年にクレラー=ミュラー美術館を開館し、初代館長に就任しました。
夫のアントン・クレラーの広大な邸宅とともに、コレクション全体をオランダの人々に寄付。
そのコレクションが基となり開設されたクレラー=ミュラー美術館は、アルステルダムのゴッホ美術館とならび、二大ゴッホ美術館とされています
美術館を創設するという長年の夢を実現した翌年、ヘレーネは70歳でこの世を去りました。
ゴッホとは
「炎の画家」フィンセント・ファン・ゴッホ。
1853年3月30日、オランダ南部の街ズンデルトで牧師の家に生まれました。
ゴッホは死産した兄の次に生まれた子供で、家の中では長男にあたります。
下にはテオをはじめとする5人の兄弟がいました
幼少時代のゴッホは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた他、一人で遠出してしまう事も多かったと言われています。
美術商グービル商会ハーグ支店に見習いとして務めるもグービル商会を解雇されてしまいます
その後、一時は父と同じ聖職者になることを夢見てブリュッセルで福音伝道師として訓練を続けていたが資格が与えらなかったがベルギーの炭鉱地ポリナージュで伝道師として採用が認められ、伝道の補助をしながら炭鉱夫たちの素描を行う
一時は父同じ聖職者になることを夢見ていましたが、弟のテオからの勧めもあって
画家への道を決心し、テオの経済的支援を受けながら画家としての人生をまっとうしました。
1886-87年、弟テオを頼ってパリに移り、エミール・ペルナール、アンリ・ド・トウルーズ=ロートレック、ジュルジュ・スーラ、ポール・ゴーガンら
印象派の画家たちと交友を持ちます
アントワープの王立美術アカデミーに登録します
ここから兄弟の2年にわたる同居生活が始まり、この二年間はファン・ゴッホにとって、多くの刺激と変化に満ちた期間でもありました。
1888年、ゴッホは画家の組合を作ることを夢見て、南フランスのアルルに移り、
ラマルテイーヌ広場に面した『黄色い家』の東棟を借りてアトリエにし
ゴーギャンと共同生活を送りました。
しかし、ゴーギャンとの理想の生活は2ケ月も持ちませんでした。
1888年の「耳切り事件」以降、アルル近郊のサン=レミ=ド=プロヴァンスにある精神療養所に入院しながら、絵を書き続けます。
ゴッホは「耳切り事件」のあと、アルル市立病院に収容されていました
弟テオが看病に駆けつけ、そのあとパリに戻りますが、同じタイミングでゴーギャンも黄色い家を後にし、パリに戻っています。
ゴッホは「耳切り事件」に関する記憶を一切覚えていなっかたようです
お酒を飲むのが好きだったゴッホなので
もしかすると飲みすぎて泥酔状態だったのかもしれないですね?
その後、彼は数回精神病院への入退院を繰り返し、ゴッホはアルルから20キロほど北東にあるサン=レミの療養所に入所します。
療養所には
ゴッホが必要としていた平穏があったようです
ゴッホは療養所の一室をアトリエとして使用することを許され、時には外へ出て風景画を制作しました。
「アイリス」「星月夜」「糸杉」などに代表される、ゴッホのうねるような筆致を用いた代表作は、ほとんどこの時代に制作されました。
『夜のプロヴァンスの田舎道』を書いた後、療養院を出ています
この絵がサン=レミで描いた最後の作品です
この作品についてゴッホは
『最後の挑戦』と呼んでいます
『月が出ているが明るくはない夜の空、細い三日月が、大地を不透明に映し出す影から、かろうじて見えている。とんでもなく明るい星が雲が流れるウルトラマリンの空に、ピンクと緑の柔らかな輝きをともなって、浮かんでいる。その下には、背の高い黄色いヨシタケに沿って道があり、背後にはボケた小屋があり、とても背が高く、真っ黒な糸杉がまっすぐに立っている。人物がいる。とてもロマンチックと言ってもいいし、でもプロバンス風だと僕は思う』
とゴーガン宛の手紙に記されていました。
一時は順調な回復を見せたゴッホですが、それ以後何度か発作に襲われるようになります。
当時の医師はゴッホの様子についてこう記しています。
『発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。
発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。』
1890年、養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移ってから死に至るまでの時代を、オーヴェル時代と呼びます。
彼は、レストラン「ラブー亭」の3階の屋根裏部屋に宿を取り、
2カ月という短期間に約70点もの作品を精力的に描きました。
1890年、ゴッホは医師ポール・ガシェに出逢い
パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、ラヴー旅館に滞在しました。
滞在の間、ゴッホは「オーヴェルの教会」や「カラスのいる麦畑」といった大作を制作しています。
1890年7月27日の日曜日の夕方にゴッホは、麦畑の近くで自らの腹部をピストルで撃ったとされていますが
死に至るまでの怪我を追った理由について、誰もその現場を目撃していない事や、銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるといった理由から、様々な異説があります。
彼と一緒にいた少年達が持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを誤射してしまったが、彼らをかばうために自殺に見せかけたというものや
ゴッホに恨みのある仲間がピストルで撃地、その人物をかばっているなどです
ラヴー旅館に怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着きました後に
旅館に駆けつけた医師ガシェは、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達していることから、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることにしました。
翌日、医師ガシェからの手紙を受け取った弟テオは、兄ゴッホの元に急行します。
彼がラヴー旅館に着いた時、ゴッホはまだ意識があり話すことが出来る状態でしたが、翌日午前1時半に死亡しました。37歳という若さでした。
未だに彼の死因について、真実は闇に葬られたままですが、こうした死の謎も、また彼の壮絶な人生を印象付ける要因の1つとなっています。
作家の原田マハさんが書いた
ゴッホのこの事件を題材にしている『リボルバー』って小説があるのですがこれめちゃ面白いです。オススメします!
ゴッホ展『響き合う魂へレーネとフィンセント』を観に行って
ゴッホ以外の同じ時代を生きた印象派の画家たちの絵画もたくさん出典されていて
特に気に入ったのがカミーユ・ピサロの『2月、日の出、バジンクール』です
果樹園の樹木に当たる朝日に遠くに見える農村と教会の田園風景の絵画です。
バシンクールのエプトというフランス・ノルマンディー地方の小さな村にピサロが暮らしてたようです
ピサロは・・・1884年4月にセーヌ川の支流エプト川沿いのエプト村に移り、生涯・住み続けます
その家からの景色に恋をして愛してしまったのかな?
とても素敵な風景ので特に色合いがとタッチが素敵な絵画です
さらにもう一点は
ピート・モンドリアン《グリッドのあるコンポジション5:菱形、色彩のコンポジション》1919年、クレラー=ミュラー美術館の作品です
へレーネは、
オランダで活躍していたピート・モンドリアンによる抽象主義絵画も、深い精神性をたたえたものとして愛好されたようです。
モンドリアンと言えば、イヴ・サンローランのワンピースになった三原色のコンポジションが有名ですね
本作は抑制の効いた色彩で
三原色のコンポジションとは違って淡い、優しい印象でした
ピート・モンドリアンは生誕150周年を迎えています